ジブアシの小説

ジブアシの小説 雨水・7

その店の扉を開けたのが、この旅で最大の幸運だったと思う。

空けた瞬間、確かに失敗したと思った。

ロッジ風のパブのドアを開けると店はほぼ満席で、ほとんど子供といっていい若い子達ばかりが席を埋め尽くしていた。誰もがとっくに酔っ払っていて、煙草の煙と喧騒が充満する店内は、はっきり言って私にはまったく場違いな空間だった。

冒険しようと思うとコレだ。

すぐに扉を閉めて帰ろうかと思ったが、それじゃ自分でこの夜を台無しにしてしまう気がして緊張を隠してカウンターに座った。バーテンの男の子の笑顔がにこやかだったのが救いだったが、それでも一杯飲んで帰ろうと思い、カシスソーダを注文した。

そのとき、隣に彼女が現れたのだ。

「ひとり? 観光?」

いかにも気軽そうに話しかけてくれたその女の子の笑顔に安心して、私は思わず何の警戒もせずに頷いてしまった。「そうなんだ。」といって彼女は当たり前のように隣に座ると、ビールを注文してニッコリと私に向かって笑いかけた。

まず何よりも先に目に入ったのが、その唇だ。

ふっくらと艶のある、これ以上ないほど豊満な唇。シャープな頬のライン、野生的に鋭い目。その目はモディリアーニが描く肖像画のようで、野生と優しさの両方を感じさせる生き生きとした光を放っていた。チリチリの長い髪は無造作に後ろで束ねられ、その幾束かがほんの少し隠す彼女の耳元には健康的なセックスアピールが輝いていた。焼けた頬にあるそばかすがまたキュートだ。ひとりで不安だったこともあるが、私は一目で彼女のことが好きになってしまった。

「ピッピみたい」

と、その迫力に圧倒された私はつい思ったことをそのまま言ってしまった。

「ピッピ?」

とその人は驚いたように目を見開き、アハハハハハハ、と大声で笑った。

「ピッピってあのピッピ? 長靴下のピッピ?」

「そう」

と私はどぎまぎしながら答えた。狭いカウンターの隣に座っていて、しかもその人は身を乗り出して話しかけてくるから顔が近すぎて、私は居心地が悪くて固い丸イスに乗せた腰をむずむずさせた。

「面白いこというね。ピッピなんて初めて言われた。この髪と、そばかすのせい?」

とその人は髪をくしゃくしゃとかき回しながらまだ笑っていた。その髪は唇と同じように豊満で、海に沈む夕日を滲みこませたように優しい赤い色をしていた。

「うん」

と私は頷いた。その人はニッと笑った。

「ひとりでこんな店にきちゃ駄目だよ。この島の男は観光客のナンパに命かけてるから、後ろの馬鹿な奴らにやられちゃうよ」

と彼女が親指で若い男の子たちを指差すと、「ナギさん、ヒドイっす!」という声と一緒に、ドッと笑い声が沸き起こった。

「よくこんな店見つけたね。観光客向けの店じゃないのに」

「ちょっと、初めてでよくわからなくて、うろうろしてたらこの店がいいかな、って思って、思い切って入ってみたの」

「石垣島初めて?」

「そう」

「気に入った?」

「とても。えーと・・・、ナギサン、は地元の人?」

「ピッピでいいよ」

とその人は笑った。

「地元の人は私みたいに日焼けしてないよ。私は移住組。でももう四年かな。まだまだよそ者だけど」

「そうなの?」

と私は驚いて言った。日焼けした肌も、後ろの男の子たちのやりとりも、ずっと地元で暮らしている人みたいに見えたからだ。

「うん。この島の人って、昼は外に出ないから意外に白いんだよね。出掛けるときは長袖だし。だから、日焼けしてるのは島が好きで越して来たタイプ。そういう人はほら、日焼けも好きだから」

「そうなんだ」

「そう。えーと、名前聞いてもいい?」

「あ、ごめんなさい。私は渡辺綿。わたって友達に呼ばれてるから、綿でいいよ」

「わた? わたって、綿飴のわた?」

「そう」

とピッピは目を見開いて驚いた。私の名前を聞くと大概の人はそういう顔をするが、ピッピの驚き方はまた豪快だった。

「面白い名前だね! しかも、自己紹介がフルネームって! 綿! 面白いね!」

「だって初対面じゃない」

「飲み屋でなかなかフルネーム言い合わないよー」

と言ってピッピはおかしそうに笑っていた。私はどう答えればいいかわからず、頭をかきながら照れて笑った。

「ごめん、失礼だったね。私は凪。凪って字わかる?」

「わかるよ」

「じゃあその凪。海の凪の凪。よろしくね、綿」

ピッピは笑い、握手を求めてきた。手を握り返すとぎゅっと強く握られ、私はその力強さに驚いた。初対面でそんなに強く手を握る人に、会ったことがなかったからだ。

ピッピからは、きれいなもののにおいがした。

晴れた日の海や、入道雲の浮かぶ夏の青空や、そういう、大きく広いものの匂いがした。普段あまりすぐ人に馴染むことのない私が、いきなり友達みたいに話してしまったのはそのせいだろう。ピッピには人を安心させて、心を一瞬でぎゅっとつかむ才能があるようだった。

「どこに行くの? 予定は決まってる?」

「まだなにも。思いつきで来て、計画も日程もなにも決めてないの。」

「そう。この島はフリープランがいちばんいいよ。朝起きて行きたいところに行って、泳いで。そのための島みたいなもんだからね」

「まさにそのためにきたの」

「そう、気が合うね。私もそのために移住したんだ」

ニッ、と、ピッピはいたずらっぽく笑った。笑うと大人っぽい顔が子供っぽく崩れて、それがまたかわいかった。

「声をかけてくれてありがとう。実はひとりで、心細かったんだ」

「そうだろうな、って思った」

ピッピは笑った。

「自分が移住してきたからか、そういうのほっとけなくて。おせっかいかな、って自分でも思うんだけど、旅は縁じゃない? 人生もそうでしょう? だから、ちょっとでも知り合えて、ちょっとでも楽しい気持ちになれたらいいな、って思って生きてるの。もともとそういう性格だったけど、この島にきてから本当に強くそう思うようになった。なんせほら、この島に来るのは旅行客ばっかりだから。その瞬間しかないんだよね。だから、もったいないじゃない。話しかければすごく仲良くなれたかもしれない人たちを、自分から手放しちゃうなんて」

「素敵な考え方ね」

旅行に行く側と、迎える側の違いなんだろう。ピッピみたいに考える人は東京にもたくさんいる。それでも、この島に住むピッピが言うとその言葉は本当に光って聞こえた。まさにそれは言葉の通りに、この瞬間しかない場所で出会っているのだ。

どこで出会ったとしても、本当は、人はみんな通りすがりだ。

だから出会いとは、その人にどれだけ心を傾けられるかなのだろう。その一瞬が、本当はすごく大事なのだろう。

だから私は、リラックスしてこの時間を楽しむことに決めた。

このかっこいい女の人を好きになったから、この時間だけでも楽しみたいと思った心に、素直に従おうと思ったのだ。

「どうして石垣島に引っ越してきたの?」

私は聞いた。いきなりプライベートな話題すぎるかな、とも思ったが、ほかに聞けることなんてなかったからだ。

「海が好きで」

とピッピは言った。

「前は東京に住んでたよ。綿は東京? 私あの街全然駄目だった」

「うん、東京」

「どれくらい?」

「十年くらいかな。高校卒業してからすぐ」

「すごいね! 私は五年で音を上げたよ。いろんな街に住んだけど、あの街は合わなかった。田舎育ちだったから、都会は無理だったんだよね」

「まだ若そうなのに、そんなにいろんな街に住んでたの? 年を聞いてもいい?」

「いいよ。二十四。父親が引っ越しが好きで、子供のころから日本全国巡ってたの。それが嫌で十五で東京で一人暮らしを始めたの」

「十五歳で!?」

「そう」

なんでもないことを言うみたいにさらっと言って、ピッピはビールをグイッと飲んだ。

「だって田舎で十五で一人暮らしは無理だよー。仕事はないし人の目はあるし。都会でも厳しいのに」

そこじゃない、と思いつつ突っ込んで聞いていいのかわからず曖昧に頷いた。そうするとピッピはやっぱりなんでもないことみたいに、

「でも父親のところにいるより、ずっと良かった。いろいろきつかったけど、高校を卒業するまではどうしても待てなかったの」

と言った。

誓って言うが、私は人の家庭環境に無神経に首を突っ込むタイプじゃない。それこそ東京で鍛えられて、人の個人的な事情に触れてしまいそうなとき、その場に合う言葉と表情で人との距離を測ることには慣れていた。

でもこれは、聞かないわけにはいかないだろう。

「お父さんとなにかあったの?」

「まあ、いろいろ」

ピッピは言った。

「なにがあったってわけじゃないんだけど、父親の生き方が嫌で嫌でしょうがなかったの。住む場所を変えるたびに仕事を変えて、またすぐ引っ越して。その繰り返し。子供の頃は楽しかったけど、思春期になると、やっぱり嫌じゃない。それで、中学を卒業したら一人暮らしするって宣言したの。高校は行くから、住む場所と学費だけ用意してくれって言って。結構簡単に折れたよ。家賃どころか学費しか出してくれなかったから生活はきつかったけど、楽しかった。」

「それは、すごいね」

「でしょう?」

ピッピは笑った。まだ若いのに全身から漲るたくましさは、そういう過去を生きてきたからなのか、と私は納得した。環境が人を作るというのは本当だ。その生き方が、この人を形作ってきたのだろう。

「綿はなんでこの島に来たの? 観光?」

「私は・・・」

と言って口ごもった。いきなり正直に話すべきことなのかどうか迷ったし、口に出すことで、自分が現実と向き合わなくてはいけなくなることに怯んだのだ。

「まあ、いろいろあるよね」

勘のいい人なのだろう。ピッピは私の表情を見てすぐに笑顔でそう言ってくれた。そして「ビール!」と言っておかわりを注文した。

「この島にいるうちは、できるだけバカンスを楽しんで。そして帰っても楽しかったことを忘れないで。そしてできたら、また楽しいことがしたいっていう気持ちを忘れないで。それが現実がキツイときに前向きに生きていく秘訣。そのためにはまず楽しまないとね」

「うん」

「綿、ダイビングはもうした?」

「ううん。やってみようかなとは思ってたけど、一人だしやったことないから躊躇してた」

「楽しいよー。私それがしたくてこの島に来たんだもん。明日行かない? 私、インストラクターやってるんだ」

「そうなの?」

と言って私は少し険しい顔をしてしまった。せっかく楽しかったのに、結局勧誘だったのかと思ってがっかりしたのだ。

「違う違う! 営業じゃないよ! もしよければってこと! でも本当に楽しいし、安くできるからできればやってみて欲しい。私、本当に海が好きで、この島に来た人みんなに見て欲しいと思ってるの。だから誘うけど、興味がなければそれでいいんだよ」

「わかった」

と言って私は笑った。ピッピの言い方に、嘘ではなく本当にそう思ってるんだろうなと感じたからだ。

「やってみる。でも本当に素人だよ。大丈夫かな?」

「簡単だよ」

ピッピは安心したように笑った。

「少し講習の時間があるけど、すぐ潜れるよ。私がちゃんとサポートするし。危険な目には合わせないから、安心して」

不思議なことに、ピッピがそう言うと本当に安心して任せられる気がした。きっとその言葉が彼女の心としっかりと繋がった言葉だからだろう。日々生きていると、シンプルに心と繋がった言葉は言えなくなってくる。それが大人になるということだとわかってはいても、心と言葉の繋がりの貴重ささえ忘れかけていた自分に愕然とした。

今その瞬間に、心の全部を言葉に乗せるというのは案外に難しい。

人との繋がりを、大人はバランスを取りながら生きているからだ。言葉に素直な気持ちを乗せて、相手に心が傾き過ぎないように常に意識する。傾きかけたときは慎重になる。そうしないと自分の生活は守れない。

でも今はいいや。

さっきこの人を好きになった自分の心を、信じたかったのだ。

「海が、本当に好きなんだね」

「大好き」

ピッピは即答した。

「潜っていると、命って美しいんだな、って気づくことができる。よくテレビでやってるような、熱帯魚の群れやサンゴの群生が単にきれいなだけじゃないの。もちろんきれいなんだけど、重要なのは、あそこは人間には死の世界っていうこと。あたりまえだけど、ボンベがないと死んじゃう。それを意識するとすごく孤独で怖い気持ちになる。でもその中で見るから、マンタの泳ぐ姿が本当に偉大で美しいと感じることができるの。まるで宇宙を泳いでいるみたいに泳ぐよ。ウミガメや、ほかの魚も。東京じゃ絶対に味わえない。孤独は人に与えられた器なのに、東京は孤独を商品にすることしか考えていないから。孤独と死が、命を光らせるのに」

私は黙って聞いていた。その、精神世界と言っていいような言葉の連なりを、ピッピは目を細め物思いにふけるように淡々と口にした。

うつろな目で神様の素晴らしさを説く宗教の信者や、人生のいい面だけを発展させようとする自己啓発セミナーの人も、もしかしたら同じようなことを言うかもしれない。私はそういうのが嫌いだ。どちらもいいことを言っているようで、同じような部分が大きく欠けていることが目に見えるからだ。

でもピッピの言葉は違った。

暗い月のような命の淋しさを両手に抱えて、そこに光るものを言葉にしているように感じた。

きっと彼女の中に、その言葉がしっかりと根付いているからだろう。

そして私の何かが、本当に彼女に集中し始めているのを感じた。彼女に向かって心がザザザッと動き、何かが、彼女の中に見つかる気がした。

「あ、ゴメン! 意味わかんないこと言っちゃってたね。海のことになるとたまに変なこと言っちゃって、自分でも意味わかんないの。ゴメン! 怪しい人じゃないから安心して!」

「ううん。いまのを聞いて、本当に潜りたくなってきた」

「そう?」

とピッピは照れたような顔をしたが、すぐに「ならよかった!」と笑顔になった。

「でも本当にきれいだから、そう言ってもらえて嬉しい。ありがとう、綿」

「どういたしまして」

不思議だ。彼女を見ていると心が温まる。思い出の写真とか、記憶とか、なにか懐かしいものを見つめている気になる。その気持ちを言い表せる簡単な言葉があるはずなのに、なんだっけ? と考えていて、ああ、と思った。

母性だ。

命への愛を、育む人だ。

ふいに、としか言えないほど、本当に思いがけなく私は涙ぐんでいた。

決して自分を卑下したわけでも、彼女を羨ましいと思ったわけでもない。でもそういう細かな感情が私の中に泡のように湧き立ってきたのだろう。隠す間もなくピッピはすぐに涙に気づき、「どうしたの? 綿?」と慌てたように聞いてくれた。

「ううん、なんでもない。ちょっと、なんだろう? 自分でもわかんないんだけど、ゴメン、なんでもないの」

「綿」

とピッピは肩をさすってくれて、私は涙を拭いて笑顔を作った。自分でもびっくりした。こんな風に、涙が溢れるなんて思っていなかった。

「ゴメン。本当になんでもないの。ゴメン」

「平気なの?」

「大丈夫」

自然に湧き上がるなにか。特に何に繋がる気持ちでもない。でも、確かにそのとき、胸の奥に染み渡るように込み上げてきたものがある。その温かさが私を揺らし、涙を自分の意思で止めることができなかった。ピッピはいつまでも私を慰め、私は照れて笑いながら、涙を両手で拭い続けた。

私は祈る。本心から、本当に、心の底から。

この涙が光の雨になって、私のなかに満ちていけばいい。いつか、いつか。今すぐじゃなくてもいい。いつか、いつかに。

からっぽで暗い、私の内側の穴の中に。

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