ジブアシの小説

ジブアシの小説 雨水・6

海は遠浅だった。

見渡す限り、という表現しか思いつかないほど、どこまでもどこまでも青い海が広がっていた。その景色に私は嬉しくなり、シャツの下に着込んでいた水着に着替え、濡れてもいいTシャツを着て、少し迷ったが浜辺に荷物を置いた。だって海の家なんてないのだ。ここまで来るとさすがに観光客も集まってきていたが、みんなのんびりと南の島のバカンスを楽しんでいる。もしも盗まれたら旅行の初日から路頭に迷うことになってしまうが、その心配はしないことに決めた。それで、サンダルを脱いでパシャパシャと海の中に入っていった。

寝転がれば頭が砂地につくほどの浅さの海で、私はまた、うわぁーと思った。

両手を広げて海から空を見上げるのも、こんなにきれいな海に浮かぶのも初めてだった。水に透けても砂は白く、サンゴのかけらが落ちていたり、よく見ると白い小さな魚の群れが泳いでいたりした。なまこが昼寝をしているように寝転がっているのを踏まないように気をつけながら、できるだけ遠くまでと、沖へ沖へと歩いていった。

息が切れるほど歩いても、まだ浅瀬だった。

私はバシャバシャと水を掻き分けながら遠くまで行こうとして、そして諦めた。肩で息をしながら沖を見つめても水平線は限りなく遠く、なぜそんなに無心に沖まで行こうとしたのか自分でもわからず照れ笑いをして、そしてまた水平線を見つめた。

ただたゆたうように、静かなきらめきが水平線の上に揺らめいていた。

私は息が整うまでその光を見つめ、そして来た道を今度はゆっくりと戻っていった。途中で水に漬かったり、魚の群れを追いかけたりしながら、その青が私の心に残像として残るまで、時間をかけて帰っていった。

髪をタオルで拭いて乾かしながら、盗まれずに残っていたバックの中から財布を出して、ただ一軒あるカキ氷屋さんのバンでマンゴーのカキ氷を買った。バンの周りにはどこからやってきたのか猫たちがいて、観光客の遊び相手になりながら平和な姿でくつろいでいた。私もなにかあげられるものを探したが食べられるものは何もなく、一匹の白い猫の頭をなでてその場を後にした。猫は人に慣れているのかいないのか、近寄ってくるでも逃げていくわけでもなく、ただのんびりと、気まぐれに人間たちの相手をしていた。

こんなちょっとした風景が、心に残っていけばいい。

初めて見る海や、観光客の気楽な姿や、島で暮らす猫の姿。そういうきれいなものを集めて私に空いてしまった穴を埋めていけばいい。覗き込もうとするとゾッとするくらい穴の底は深かったが、でもいい。きれいなものをできるだけたくさん集めれば、その穴もいつか埋まるだろう。そのための旅なのかもしれないと、あくびをして伸びをする猫を見ながら思っていた。

波打ち際を隣の浜まで歩き、またそこにも一軒だけ出ているお土産屋さんで星の砂の小瓶を買った。達彦に、と当然思ったがその気持ちを封じ込めて、自分のために、ただ旅の思い出として買った。いつか東京で小瓶を見て、この島を思い出すために。そして太陽にあっという間に髪が乾いていくのを楽しみながら、初日の海辺を後にした。

ホテルに戻りテレビをつけると、やることがないことに気づいてびっくりした。

一人旅とはこうゆうことか、といまさらながら思い、シャワーを浴びて窓を開けて、潮風に吹かれながらくつろごうと思っても、窓からは海風がなにもかも吹き飛ばす勢いで入ってきて、とても窓を開けてくつろいでなんていられなかった。

それでも旅の疲れもあって、ゴロンとベットに横になると瞼が重くなってきた。昼以来何も食べていないのでおなかがグウグウと鳴ったが、食べに行くのも面倒くさいのでそのままウトウトとしていると、本格的な眠りに、頭の芯が溶けていった。

でもさすがは旅の、初日の夜だ。意外なことというのは起こる。それがどんなにささやかなことであっても、それが旅の醍醐味なんだと思う。

窓の外の歓楽街から、閉めた窓を突き抜ける勢いで大音量の有線が響きだしたのだ。

旅をどれくらい続けるのか決めていなかったから、確かに安いホテルを取った。ビジネスホテルに毛が生えたようなホテルで、立地も良くないのは気づいていたが、まさかこんなにものすごい騒音にさらされるとは想像していなかった。

とてもじゃないが眠ってなんていられない。

カーテンを開けると、いつの間にか夕闇が夜に色を変えていっていた。海を覆い尽くすように空は深く色を落とし、港に残る船までその夜に消えていく。透明な空気の中、夜の色は美しく世界を包む。そして、大音量の有線にはいつの間にかダミ声のおじさんの声まで混じり始めていた。

恐ろしいギャップだ。

窓の外の風景がどんなに美しくても、ここは人が生きて、生活している場所なのだ。石垣島に幻のような美しさを夢見ていた私は苦笑して、部屋着を脱いで新しい服に着替えると財布を手に取った。

おなかが空いた。おいしいものを食べに行くのだ。

街には夜を歩く人たちがたくさんいた。

その楽しそうなざわつきが夜風に乗って広がっていくような雰囲気だった。きっと私と同じような、気の早い観光客たちだろう。その空気に押されるように私の足取りは軽く、大通りから裏通りまでひょいひょいと歩いていくつかの店の暖簾の前で立ち止まった。石垣牛の看板にものすごく惹かれたがさすがに一人で焼肉屋に入る勇気はなく、それで、少し裏手にある落ちついた佇まいのお寿司屋さんの暖簾をくぐった。石垣島で寿司、というのはあまり聞いたことがない気がするが、なんといっても島なのだ。魚がまずい訳はないだろう。

思ったとおり大当たりだった。

店はこじんまりとしていて清潔で、一見の客でもカウンターで寛げる気安さがあった。値段も安く、いつもだったら頼めない特上握りの一貫一貫にいちいち驚きながらあっという間に食べ終わってしまった。もう少し食べたくて貝のお刺身の盛り合わせと瓶ビールを頼み、少し酔っ払ってきたところで思い切っておかみさんに声をかけた。

「シャコ貝、すごくおいしいです。こんなにおいしいの生まれて初めて食べました。」

「そうでしょう。」

と、最初は低く、言葉尻の音が上がるこの島の話し方でおかみさんはにこにこと返してくれて、「どこからきたの?」と聞いてくれた。

「東京です。今日着いたばっかりなんです。一人旅できました。予定を決めていないんですが、どこかお勧めの場所はありますか?」

「あれまあ」

とおかみさんは言って、サービスで小鉢をひとつ持ってきてくれた。その中に入っていたのはお寿司屋さんなのになぜかラフティだったが、それもまた、とろとろで甘くておいしかった。

「どうだろうね。わたしらここに生まれてからずっといるけど、ずっと同じ場所にいるからよくわからんのよ。どこがいいかねぇ。」

「鳩間島がいいよ。」

と奥にいるカップルのお客さんが声をかけてくれた。程よく酔っ払って丸めがねをかけた、きれいな女の人だった。

「せっかく一人で来てるんだったら鳩間島に行ってみるといいよ。あまり観光客にも知られてなくて空いてるし、一人でのんびりするにはいい島だよ。私あそこ、大好きなんだ。」

「ありがとうございます。あなたも観光で来てるんですか?」

「うん、そう」

その人はニコニコと話し続けた。ずいぶん酔っ払っているのか、話している間ずっと隣にいる体の大きな男の人に頭をもたげていて、その顔がまたなにもかもその男の人に預けているような安心感に満ちていて、見ているだけでその幸せの温度が伝わってきた。男の人も目で私に挨拶しながら女の人の話に頷いていて、ほんとにいいカップルなんだなと、私の口元も優しくなった。

「毎年来てるの。夏も冬も来るけど、今の時期もすごくいいよ。雨さえ降らなければだけど。旦那ともこの島で出会ったんだよ!」

その人がニコニコとそう言うのを、隣の男の人が照れたように笑って頷いていた。私は置いてきた達彦との距離を想い少し淋しくなったが、酔いと、旅先の気楽な雰囲気と、その人の幸せそうな空気にすぐに忘れ、絶品のシャコ貝をつまみながらいろいろな石垣島の情報を教えてもらった。瓶ビールをすっかり空け、酔いがしっかり廻り始めた頃に席を立った。その人は最後までニコニコしていて、「どこかで会ったらまた飲もうね!」と言ってくれた。私も笑って約束し、お会計を済ませて店を出ようとしたときだった。

「でもね、この人が運命の人だ、って思ったら絶対に手放しちゃダメ。いつかまた会えるって言い訳をして、たしかに運命ならまた会えるかもしれないけど、会えるまでの何年、もしかしたら何十年が、私はすごく惜しいと思ったの。だから旦那と今こうして一緒にいることができる。だから、きっとそういうことだよ!」

そう言われて驚いた。

説明しにくいから、私は達彦のことは話さなかった。でも最後にその人がくれた言葉に旅先の出会いの不思議を思った。酔いも手伝って、なにか運命を廻すネジのようなものが動き始めている気さえした。

それがどこにつながるのかはわからないし、たぶん気のせいだ。それでも予感が確かにする。それが運命というものだろう。

店の外に出るとまだ夜は浅く、夏の甘い匂いが街を覆っていた。それは夜にどこか遠い場所の風景を夢想していた子供時代の夏と同じ匂いで、私は目を細めて空を見た。

今、私は、自由なんだ。

そう、淋しさの残る心で思った。

達彦の面影を感じることはできても、私は今一人でここにいる。それは自由の喜びを感じるには弱々しく、自由の孤独に溺れるには日が浅すぎた。それでもまっさらな何かが私の心に広がり始め、私はその何かを見つめながら空を見上げた。

もう少し飲みたいな、と歩き出しながら思った。

投げやりではない気持ちでそう思い、旅先の夜の思いに自分を任せることにした。一人で飲みに行くのは少し怖かったが、いい夜だ。特別いいことはなくても、悪いことは、きっと起こらないだろう。

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