ジブアシの小説

ジブアシの小説 雨水・5

八重山そばだ。

石垣島の名物を調べたら八重山そばで、調べるまでもなく街中のいたるところにその看板を見ることができた。それじゃあ、とホテルに荷物を置いてからなるべく古くて清潔そうなお店を選んで入り、初めて食べるそのそばにピパーチという山椒みたいな香辛料をかけて食べた。食べなれない味だったが、それもまた旅先の情緒に溢れてとてもおいしかった。そしておなかが満たされると、これからどうしようかと真剣に考えた。

現地に着けばどうにかなるだろうと予定も組まずに来ていたが、いざ着いてみると自分の考えが甘すぎたことを思い知らされた。石垣島は広く、車がないと島を回ることはできない。レンタカーを借りても良かったが、今すぐに借りて遠出をする気にはなれなかった。それで、ガイドブックを開きどこか近場で巡れそうな場所を探した。

竹富島が良さそうだった。

離島ターミナルというところから、フェリーですぐだ。

石垣市内は思いのほか都会で、沖縄といえば誰もが想像する朱色の瓦屋根やシーサーの置物をほとんど見かけなかったが、竹富島にはまだその風景が色濃く残っているらしい。島自体も小さく、海辺までも歩いていけそうだ。ターミナルもホテルに近い。相談する相手もいないから、行きたいところに行けばいいだけだ。旅は始まったばかりで、一人旅の淋しさはまだ私に訪れてはいなかった。初めて来た場所に感じるもの珍しさが、少しずつ気楽な開放感に変わり始めていた。

そして、ブーゲンビリアの道を歩いていた。

竹富島に着くと、観光バスにも名物の牛車にも乗らず、三キロの道を海辺まで向かった。日差しが強く、日焼け止めを塗らなかったことを後悔しながらも、いつか映画で見たことがある風景の中を歩いていった。

朱色の瓦屋根、石の壁、乾いた土の道と、太陽の光、海へと続く空。

観光シーズンではないから観光客の姿はほとんどなく、現地の人の姿はそれ以上に少なかった。音を出すものは何もない。鳥の声も、蝉の声さえしなかった。いや、本当は聞こえていたのかもしれないけれど、空が高すぎて青すぎてなにも耳に入らなかった。まだ六月なのにあたりまえのように真夏の暑さで、流す汗が、シャツを濡らすのも気持ちよかった。

なにもない道の途中、御堂というには小さい、祠のような場所を見かけた。

木に守られるようにその小さな場所はあって、東京だったらお地蔵さんが置かれているであろう場所に、丸い石だけが静かに鎮座していた。その石は花が手向けられるわけでもなく、お供え物があるわけでもなく、ただ長い年月の中で日の光に洗われた清潔さで、佇むようにそこにあった。

―――この島の神様かな。

よそ者の私が勝手に踏み込んでいいのか迷ったが、礼儀として手だけ合わさせてもらった。石に近づくと木の影に汗が引いて、ひんやりとした心地よさが肌に触れた。

手を合わせて目を閉じるだけで、心に凪いだ落ち着きが広がっていく。自分の心がどれだけ心細さを感じているのか、こんなことでも知っていく。私はしばらくその場所で目を閉じた。そして名前も知らない神様にお礼を言って、今日はこの島に、明日はどこかわからないけれどきっと近くの八重山諸島のどこかに居させてもらうことをお願いした。心細いこの旅が、どうか少しでも私の道を見つけさせてくれますようにと、思いのほか深い場所から祈っていた。

どうしてこの旅に別れの予感がついてくるのか、本当にはわからなかった。

達彦は私の連絡を待っているだろう。あの部屋で。私たちの部屋で。パソコンに向かう、見慣れた猫背の後姿が目に浮かぶ。たまにメガネを指で押し上げながら、仕事用の資料を真剣に作り上げているのだろう。

愛しいな、と思う。

好きだな、大切だな、って思う。

心の中の面影にさえそう思うのだから、私が達彦を必要としていることに疑いはなかった。そもそも私たちに別れ話は必要なく、あのまま日々を続けていけばいいだけだった。私の子宮はなくなったが、手術後の検査でほかに悪いところがないことは確認した。経過観察は必要だが病気はほぼ完治し、体調も戻った。子宮を失くしたことは確かにショックだったが、私と達彦はそれを乗り越えていけるだろう。今までにだってひどい喧嘩もしたし、もう別れようと決意したことも何回でもある。それでも数え切れないほどの昼も夜も朝も二人で迎えてきたのは、結局、達彦の手のひらの湿り気が、私の手のひらに、いちばんぴったりだと信じてきたからだ。

信じてきた。

でもじゃあなんで、

なんで私は、今ひとりで石垣島まで来ているんだろう? 友達も誘わず、たった一人で竹富島を歩いているんだろう?

達彦との日々は変わらないのに、正体のわからない不安が静かに私を侵し続けていく。もう駄目だ、と、膝を折りきる前に、私は不安の正体を知る必要があったのだ。

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