ジブアシの小説

ジブアシの小説。 雨水・3

私にとって、世界で一番気楽で安らげる場所が達彦の居る場所だったのに、その場所はもう変化してしまっていた。愛情は変わらない。子供は当然まだいなかったが、幸せだった頃はとにかくどうしても子供が欲しいというわけではなかった。もし子供ができなくても、二人でしわくちゃになるまで一緒にいれたらいいね、なんて笑いあっていた。

全部過去だ。

その可能性に私がどれだけ期待していたか、こうなるまで気づかなかった。理屈じゃなく、感情でもなく、ただ体の奥が、悲しくて悲しくて仕方なかった。

達彦とわかりあえたら、少しは楽になったのだろうか?

でも達彦の諦めと私の悲しみは、まったく違う種類のものだった。二人はお互いをつなぐ何かを手に握り締めたまま、大きな川を挟んだ吊り橋の向こう岸で、もやに霞むお互いの影を見つめているようだった。

「ちょっと、一人旅というか、一人で旅行に行こうと思う」

そう言ったときの達彦の顔は、予想した通りのものだった。

少し驚いて、少し安堵して、少し不安げで、そういういろいろな表情を、生来の優しい気質で、少しずつ隠した顔だ。

どんなときも自分の感情よりも先に、相手の気持ちに沿った言葉を選ぼうとする顔。達彦のその優しさが、私は本当に好きだった。

「うん」

ベランダで、買ってきたばかりのミニトマトの苗を鉢に植え替える手を止めて、達彦は私の目をまっすぐに見た。私は少し目を逸らして、達彦が握るスコップの土の汚れに目を止めていた。

「うん」

達彦はもう一度そう言った。私が理由を言うのを待つように、そのままの姿勢で私の目を見続けた。私は目を合わせず、言葉だけが軽々しく口を出た。その軽さに自分自身が傷ついても、どうしても止めることができなかった。

「ちょっと、気分転換というか、そういうのが必要だと思って。一人旅って言うほど大袈裟なものじゃないんだけど、どこかに一人で行って、リフレッシュしてこようと思って。一週間か、十日か、もうちょっと。有給もまだあるし、病気のことも会社は知ってるから、言えば休めると思う」

嘘だ。

手術以降は体調を崩すことが多く、有給はほとんど使い切ってしまっていた。そのことは達彦も当然知っているはずだった。だから、私が長期休暇を取ろうとしたらかなり面倒な手続きを取ることになる。でもそんなことを気にしている余裕は、もうなかったのだ。

「俺も行こうか?」

私の嘘については何も触れず、ほとんど反射的に、礼儀と言っていいスピードで達彦は言った。私は首を振った。達彦もわかっているはずだった。

「一人で行くべきだと思う」

できるだけ落ち着いた口調で、でも言葉を選んで言った。達彦は立ち上がり、「うん。わかった。」と言った。スコップを置き、手についた土を払って、いつもの達彦と何も変わらない言い方だった。その言い方に私はうつむいてしまう。動揺を見せないのが優しさだと思っているのなら、それは違うよ、と、心の中でだけ呟いた。

「俺もそれがいいと思う。最近ずっと塞ぎこんでたし。そういう時間が必要なんだろうなとは、思ってたから」

「うん」

「それで、どこにいくの?」

「まだ決めてない」

「海外とか?」

「嫌だよ。英語喋れないし」

「いつ行くの?」

「それも決めてない。でも休みが取れたらすぐ」

「そっか。お土産期待してる」

「・・・たくさん買ってくるよ」

ああ、別れの匂いしかしない。

私は単純な人間で、自分の感情を持て余すのが嫌いだ。説明できない感情を持ち続けるのが苦手だ。病気になる前だったら、私のそんな感情は達彦がいればいつのまにか消えていってしまった。心を置ける場所が、人が、そばにいることがどんなに自分にとって、生活して生きていくことにとって重要なのか、私は達彦といて知っていった。でも私は今、達彦のそばから離れようとしている。どうしていいかわからないのだ。

「何度も言ったけど」

達彦が言った。

「俺は子供がいなくてもかまわない。一緒にいられれば、それだけでいいと思ってる。それはちゃんと伝わってるよね?」

「・・・うん」

「だから結婚をやめる気はない。自分が納得できなければ絶対に引き下がらない。それも、わかってるよね?」

「・・・うん」

「・・・わかった」

いろいろなものを飲み込んだ、「わかった」だった。

私は窓の外に広がる公園の緑をぼんやりと目に映していた。五月の空は青くて、マンションの前に広がる公園の木々は光を弾くように風に揺れている。鳥の声がして、飛行機雲が流れて、消えていく。私は目に涙を溜めていた。

「ごめんなさい」

「なにが?」

「・・・ごめんなさい」

達彦は首を振った。

「私もどう整理をつけていいかわからないの。病気だから、自分のせいじゃないから、仕方ないからって、わかろうとして、納得しようとしてる。でもそれだけじゃなくて、自分が、これから自分がどういう風に生きていけばいいのか、ごめんなさい、病気は関係ないのに、わからなくて、達彦と離れたいわけじゃないのに、私はどんどん一人になっていく気がして、ごめんなさい、ごめん、少し、一人になって考えたら、なにか、出口が見つかるかもしれないって思って、それで、でも、それで、ごめんなさい、私の中の何かが消えてしまって、・・・子宮、だけじゃなくて、何かが消えてしまったの。その何かがわからないまま、ごめんなさい、一緒にはいられなくて、それで・・・」

「・・・謝ることじゃないよ」

支離滅裂な言葉と一緒に、勝手に涙が流れていた。毎日、気にしない振りで我慢して我慢して我慢して、それでも我慢して溜めた涙は、大粒の雫になって零れ出た。

こんな涙があるなんて知らなかった。

八年も一緒にいるのに、達彦は私の涙を拭えなかった。私も、拭って、抱きしめて欲しいとは思っていなかった。それで解決できることだったらどんなによかっただろう。ただの喧嘩で、私がつい泣いてしまって、達彦が仕方なく思いながらも私を慰めて、それで仲直りできる涙だったら。でもこの涙は、ただ重く床に落ちていくだけだ。私の足元に、ただ、不恰好な水溜りを作るだけだった。

「・・・待ってるから」

達彦のその言葉に、泣きながら謝るしかできなかった。

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